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香織派の謎
1.西在家香織派ってなに?
中里一による個人サークルです。略称「香織派」です。
百合の普及発達を目的とし、百合がコミケのジャンルコードを獲得することを目標としています。
コミケ等のイベントにサークル参加しています。百合に関する情報を同人誌やホームページで提供し、中里一による百合小説を頒布しています。
2.「西在家香織」って誰?
久美沙織『丘の家のミッキー』全10巻(集英社)に登場する、少女小説家です。彼女の初期作品は、
『レズみたいな友情もん書いてデビューしたくらいで、おんな同士が運命だ葛藤だってべちゃべちゃしてる話かかせるとすごい迫力らしいよ』
(久美沙織『丘の家のミッキー』第2巻227頁(旧版)、229頁(新装版))
というものです。
もちろんそのテキストは存在しないので、それが香織派の理念に合ったものである、ということはできません。しかし香織派は、ジャンルとして成立する百合という、まだ存在しないものを追い求めるサークルです。そのようなサークルの名称には、現実のどんな存在の名前よりも、実在しない作家の名前こそふさわしい、と考えました。
3.なぜこんな活動をしているの?
一刻も早く、少しでもよい百合を、一つでもたくさん楽しみたいからです。
私が百合を志したときには、百合の将来はさして明るいものには見えませんでした。しかしその後、セラムンによって大きく情勢が変化し、百合にチャンスがやってきました。このチャンスをものにし、百合を確固たる存在にするために、私は西在家香織派を立ち上げました。
現在ではやや状況は安定しました。百合はセラムンのチャンスから、満足すべき結果を引き出しましたし、現在はマリみてブームが拡大中です。今後、百合はその質と量をますます向上させてゆくと考えられます。
しかし、香織派の目標である、コミケのジャンルコード獲得には到っていません。香織派は目標の達成に向けて、現在も活動を続けています。
百合論がわかるらなくなる
1.はじめに
本論には、統計的な裏付けや、引用元の明示が欠けていることをお断りしておきます。
本論は、綿密な検討に入る前の、ラフスケッチの段階にあります。十分に固められた結論ではなく、有益な示唆を与えることを目指すものです。
綿密な検討の末、客観的な証拠で十分に固められた、しかしナンセンスな結論にたどりつくことがあります。もし本論が、そのようなナンセンスの妨げとなるなら、これに優る喜びはありません。
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2.イデオロギー
ある心理学者が、新聞の身の上相談欄を担当していました。
あるとき、再婚したばかりの子持ちの中年男性から、相談の手紙がありました。娘が、新しい妻に対して、母として接するには抵抗があるようだ、どうすべきか。
心理学者は、「母親ではなく父の妻として、つまりなかば他人として接するよう仕向けるべきだ」と答えようとしました。母娘として暮らした蓄積がなく、また互いのことを認め合って家族になったわけでもなく、心理的には他人同士なのだから、そのようにすべきだと。
が、この回答に対して、編集部から待ったがかかりました。このような回答は社会的に受け入れがたく反発を招く、もっと穏当なものを、と編集部は要求したのです。
これは、「家族」という支配的イデオロギーが現実を蹂躙した例です。母娘として暮らした蓄積がないという現実は、イデオロギー上の要請を満たすために、無視されたのです。
この「無視」という特性をよく心に留めておいてください。イデオロギーは、もっとも無視しがたいことを無視させることができます。その能力のために社会に存在している、とさえ言えるでしょう。
イデオロギーは目に見えず触ることもできませんが、社会に存在する力のひとつです。また、支配的イデオロギーは社会によって異なり、同じ社会でも時間とともに変化します。
支配的イデオロギーが社会によって異なる例として、ロシア農民社会のイデオロギーを示すアネクドートがあります。
あるところに、つつましく暮らす、信心深い農夫がいた。あるとき神が、彼の前に現れて、なにか欲しいものがあれば与えよう、と言った。農夫は、なにも欲しくない、と断った。神は重ねて、なんでも与えるから言ってみろ、と迫った。農夫は答えた――それなら、隣の奴の牛を殺してください。俺が牛を持っていないのに奴が持っているのは我慢ならないのです。
もし舞台が現代日本なら、この農夫は異常性格にすぎず、アネクドートとして成立しません。ロシア農民社会では、この農夫を異常性格として切り捨てられないからこそ、人に話すに足りるアネクドートになっています。
イデオロギーは当然、なんらかの社会的な必然性によって存在しています。しかしこの問題については、長くなるので、詳述を避けます。
2.1 フィクションにおけるイデオロギー
まず、「イデオロギー」と「ジャンル」の違いをはっきりさせておきます。
香織派による百合の定義は、「非レズビアンの立場から書かれた非ポルノの女性同性愛(もしくはそれに近いもの)のストーリー」です。これはジャンルを示す定義であり、イデオロギーを示すものではありません。「家族」は国語辞書的には、「近い血縁関係(もしくはそれに擬せられる関係)のある人々が暮らしを共にすることで生じる集団」と定義できますが、これは「家族」イデオロギーを示していません。
特有のイデオロギーを持つジャンルもありますし、持たないジャンルもあります。たとえばミステリーは、「合理的に見出される解決と、それによって回復される秩序」という特有のイデオロギーを持っています。一方、時代劇に特有のイデオロギーは見当たりません。
イデオロギーは社会的な必然性によって存在しますが、ジャンルは商業的な便宜のために存在するカテゴリーです。「SF」というジャンルが売れなくなったので、かつてならSFにジャンル分けされていたような作品も「ファンタジー」になっています。若木未生「ハイスクール・オーラバスター」シリーズは、以前なら「学園SF」とされたでしょう。
イデオロギーにも流行り廃りがあります。朱子学イデオロギーはすっかり廃れたので、朱子学イデオロギーの作品は現れなくなりました。現在、『南総里見八犬伝』がリメイクされる場合には、朱子学イデオロギーの部分はあとかたもなく取り払われます。
フィクションは現実の社会より抽象化されているので、いっそうイデオロギーに満ちています。興味深いイデオロギーは数多くありますが、以下では、百合の直接の先輩であるボーイズラブに特徴的なイデオロギー、「強姦されてハッピーエンド」の歴史について論じます。
「強姦されてハッピーエンド」とは、その名のとおりのものです――受が攻に強姦されて、最後は受と攻が愛し合ってハッピーエンド。受の面子や怒りやPTSDなどの問題は、愛の引き立て役としてしか扱われません(もっとも無視しがたいことを無視させるのがイデオロギーの働きです)。
これが、やおいの発祥から現在に至るまで、ボーイズラブの重要な部分を占めているイデオロギーです。もし嘘だと思うなら、本屋でボーイズラブ小説をランダムに十冊買って読んでみてください。その十冊のなかの、少なくとも二冊は、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーを忠実になぞっているはずです。
2.2 イデオロギーの発展の歴史
イデオロギーは純粋に抽象的なものですが、それが社会に一定の地位を占めるには、少なくとも、多数の力量あるイデオローグが必要です。
力量あるイデオローグの養成は難しく、よいお手本が少ないときにはいっそう難しいものです。
よいお手本を作れるのは、力量あるイデオローグだけです。
よって、最初が問題です。イデオロギー発生という最初の一歩を、いかにして踏み出すか。踏み出された最初の一歩が、時間の風に吹き消されないうちに、力量あるイデオローグの養成へとつなげられるかどうか。
ボーイズラブにおける「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーは、その最初の一歩を、同人誌市場で刻みました。
予兆はありました。いわゆる二十四年組の手になる、少年愛物の作品群です。これらの予兆が、男性同性愛のストーリーについての古い無力なイデオロギーを一掃しました。この大掃除によって、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーが登場することが可能になりました。
よく探せば、予兆のなかにも、純正な「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーが見出せるかもしれません。それでも、次のように断言していいでしょう――
「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーを一定の勢力に押し上げるには、同人誌市場の存在が不可欠でした。最初の一歩を受け継いで根付かせたのは、同人誌市場です。ボーイズラブは、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーの力によって、ジャンルとして成立しました。
最初の一歩が根付いた後には、発展のプロセスが待っています。これはなによりもまず量的拡大として現れます。
「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーは、1980年代末にはすでに、内容面では現在と変わらないものになっていました。しかし、商業誌市場には地位を得ていませんでした。現在のボーイズラブは、商業誌市場でも一定の地位を占めています。ボーイズラブの過去十数年間は、主として量的拡大の期間でした。
量的拡大とは、ユーザの数が増えることでもありますが、これはむしろ二次的な現象です。力量あるイデオローグの養成が進み、その数が増えることが第一です。力量あるイデオローグの数の増加が、作品の生産量と多様性を向上させ、結果としてユーザ数の増大をもたらします。
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3.ジャンル固有の文脈
ボーイズラブに次いで百合に近いジャンルに、ギャル物があります。
「ギャル物」とは耳慣れない、というかたも多いでしょう。これは、「ギャルゲー」「ギャルアニメ」という呼び方に由来するもので、香織派とその友好サークル(新月ギャルの会、新月お茶の会)で通用している概念です。「ギャル」とはいっても、男性向けや女性キャラに限定するものではありません。が、ここでは少なくとも、話を女性キャラに限定します。
「ギャル物」におおまかな定義を与えると、次のようになります――「キャラ人気に多くを頼るフィクションのうち、キャラの魅力として性的な含みを多く持たせているもの」。
ギャル物においてキャラの魅力は、作品の存在理由であり目的なので、魅力を成立させるために他のすべてが動員されます。なかでも男性向けのギャル物は、ジャンル固有の文脈を高度に発達させており、この文脈を踏まえずにはまったく理解できないような種類の魅力がしばしば見られます。
ジャンル固有の文脈とは、時代劇の殺陣のようなものです。メリハリのある美しい殺陣に、「実物と違う」と文句をつける人はいません。これは「殺陣」が、時代劇というジャンルの文脈になっているからです。
殺陣の存在理由は、演劇的な美しさという比較的わかりやすいものなので、時代劇をほとんど知らなくても理解できます。が、ギャル物における「妹」概念となると、かなり難解です。その存在理由が、美しさなどの全人類的な価値観ではなく、ギャル物のイデオロギーというローカルなものだからです。
ギャル物に特有のイデオロギーは、性的な人間関係における反市場主義です。このイデオロギーの要請に応える方法のひとつが、市場から保護されている人間関係に性的な含みを与えることです。市場から保護されている人間関係のひとつに「家族」があり、妹がある、というわけです。
このように模範回答が与えられている場合、イデオロギー上の要請に応えるのは易しいように見えます。が、ジャンル固有の文脈をつくりあげてゆく過程は、けっして容易なものではありません。
二十年前、兄と妹の関係に性的な含みがあるといえば、それは必ず「タブーの侵犯」という文脈に強く縛られました。このような環境では、『シスター・プリンセス』(メディアワークス)は存在することができません。ローマは一日にして成らず、とは、ジャンルについても言えることです。
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4.ジャンル経済学
すでに述べたように、ジャンルとは、商業的な便宜のためのカテゴリーです。
便宜のためのカテゴリーだからといって、その存在を無視できるものではありません。それは経済的な面を通じて決定的な役割を果たします。
作品は、ジャンルという肩書きで世に出ます。ユーザは、本屋にあるすべての本にいちいちつきあって、その内容を見定めるわけではありません。ユーザはまず肩書きを見て、その作品に時間を割くかどうかを判断します。
もし肩書きがあまり役に立たず、己の直感と情報収集力によって作品を判断しなければならないとしたら、その負担と機会損失は恐るべきものです。
ジャンルの経済的な面の大半は、いくつかの法則として記述することができます。ここでは、特に重要と思われる三つの法則を掲げておきます。
法則一・ユーザ数が少ないほど、個々のユーザにかかる負担は増大します。
つまり、収穫逓増の法則です。農産物や工業製品では、生産量が一定量を過ぎるとこの関係が逆転し、収穫逓減の法則が働くこともあります。しかし、ある種の製品では、収穫逓減の法則が働くことはありえません。これは特に、パソコン用ソフトウェアについていえます。
ユーザの数が多いほど、ソフトは数多くの種類が作られます。ユーザはそのなかから最善のものを選ぶことができます。また、最善でない他のソフトに対しても、いまある最善のものへと近づくよう要求することができます。こうして、一人当たりの負担は減少します。
フィクション作品では、パソコン用ソフトウェアほど事情は単純ではないものの、やはり収穫逓増の法則が常に有効です。たとえばボーイズラブについて、十数年前と現在を比較してみましょう。
現在のようにボーイズラブ専門レーベルが現れる前には、商業誌に流れる作品の数はきわめて限られていました。また同人誌即売会に参加するには、本屋に立ち寄るのとは比較にならないほど多くの時間と費用がかかります。当時と比べて現在では、ボーイズラブのユーザの負担は、格段に減少しました。
ユーザ数の増大が先か、負担の減少が先かについては、いささか難しい問題があります。しかし、因果関係をひとまずおいて相関関係だけを見るなら、二つのあいだには間違いなく正の相関があります。
法則二・ユーザの総数が多いほど、個々のユーザが耐えられる負担の限界は、小さくて済むようになります。
もしボーイズラブが現在の百合のように稀なものだとしたら、ボーイズラブ作品を求めて東奔西走する(=大きな負担に耐える)人は、かなり多いと考えられます。これは、法則二が無意味な例です。耐えられる負担の限界は、「小さくて済む」のであって、「小さい」のではありません。
では、トラベル・ミステリーでは? 数少ないトラベル・ミステリーを求めて労を惜しまず情報収集に励む人は、どのくらいいるでしょうか。ボーイズラブを求める人の数に比べて、何分の一か、何十分の一か、もしかすると一人もいないかもしれません。法則二はこのようなケースを記述するものです。
(ひとつの疑問が生じます――トラベル・ミステリーはユーザ数が少なければ成立しないのでは? トラベル・ミステリーは最初から多数のユーザを得ていたのでしょうか?
答は、「そのとおり」です。ミステリーというジャンルは、松本清張が『点と線』を発表した1957年には、すでに多数のユーザを得ていました。トラベル・ミステリーは既存のミステリーを踏み台にすることで成立しました)
負担限界には、ジャンル特有のイデオロギーが大きく寄与することもありますし、なんらかの個別的な事情が寄与することもあります。たとえば、同性愛者向けというジャンルは、個別的な事情が負担限界を決定している例です。
法則三・ユーザの総数は、もっとも不足している要素によって決まります。
ごく単純な、律速段階の法則です。発電所には100の発電能力があっても、送電線の送電能力が50しかなければ、結果的に50の電力しか送れません。発電所が50、送電線が100だとしても、結果は同じです。
このような不均衡は、時間とともに是正されます。不均衡が完全になくなった均衡状態を仮定するとき、資本主義においては、利潤が律速段階として働きます。ジャンル経済学の世界では、イデオロギーの力が律速段階です。
現在、ほぼ均衡状態にあると考えられるジャンルに、SFがあります。SFの知名度は高く、作品に触れることも容易ですが、SFのユーザが増えている兆候はありません。もし将来、SFが拡大に向かうとしたら、そのイデオロギーに変化が生じたときでしょう。
十数年前のボーイズラブは、均衡とはかけはなれた状態にありました。1985~1995年のあいだ、ボーイズラブの律速段階は主として、力量あるイデオローグの数であったと考えられます。
一般に、急速に拡大しつつあるジャンルでは、力量あるイデオローグの数が律速段階になるようです。ユーザになるのも、イベントにサークル参加するのも簡単ですが、力量あるイデオローグになることはまったく簡単ではありません。
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5.百合のイデオロギー
以上は、百合をめぐるジャンルとイデオロギーについての議論でした。以下では、百合そのものについて論じます。
5.1 イデオロギー史
百合のイデオロギー史は、吉屋信子に始まります。吉屋信子の百合に特徴的なのは、女性への強い憧れです。吉屋信子は人間観察の達人ですが、人間を理想化することの達人でもありました。
吉屋信子的な理想化は、「高邁な魂を呼びあう二人」という形に整えられ、目立たぬながら1980年代まで受け継がれました。学習指定物件の、有吉京子『アプローズ ―喝采―』(秋田書店)もこの系譜です。坂井久仁江「明の明星女学院の初夏」(『バッドコネクション』(集英社)所収)は、このイデオロギーの存在を前提にしたものです。
1970年代には、「愛ゆえに孤立」イデオロギーが見られるようになります。愛は高邁な理想であり、同性愛だからといって引き裂かれそうになるのは愛への冒涜であり試練である、というイデオロギーです。福原ヒロ子『真紅に燃ゆ』(集英社)などが代表的な例です。
「高邁な魂を呼びあう二人」も「愛ゆえに孤立」も、あまり魅力的なイデオロギーではありませんでしたが、ほかに代わるものもなかったので存在しつづけました。
すべてを一変させたのが、セラムンです。
革命の炎のなかで、古い無力なイデオロギーは焼き尽くされました。しかし、新しい強力なイデオロギーは訪れませんでした。
新しいイデオロギーを強いて挙げるなら、「身近な愛」です。おかしな理想化や不快な強迫観念から自由な、自分のよく知っているものでできた愛、というイデオロギーです。一九八〇年代後半から浮上してきたイデオロギーですが、セラムン後には完全に他のイデオロギーを圧しています。